スピリット・オブ・アートセラピー1

 

アートセラピー前夜(1)

 

 

1970年は、いくつかの大きな出来事があり、歴史上大きな節目があった年として記憶されている。

 

その年は、1960年に締結された日米安全保障条約の更新がなされた年であった。当時は学生運動が、全国の大学で吹き荒れており、「安保反対」のデモが毎日繰り返されていた。

 

その年の夏は、人間が道路を歩いたことが新聞の一面に写真入りで大きく取り上げられた年でも ある。

 

―― 歩行者天国のことである。今日では、我われには馴染みの世界であるが。

 

その年の4月に、私は上智大学外国学部ロシア語学科に入学した。

 

入学した学内ではいくつもの大きな立て看板がキャンパス内に林立し、メインストリートではヘルメットをかぶった学生がマイクでアジ演説をしているのが日常の光景であった。

 

やがて私も、授業そっちのけでさまざまな運動に加わっていくことになった。

 

・学内の授業料値上げ反対に端を発した学生運動

 個人的な感想だが、学生運動をしていた間は抗議と反対運動が主で、将   来へのヴィジョンとか、では社会の在り方がどうあるべきかということに 

ついて話し合った記憶があまりない。

 

・東大の宇井純の主催する公開自主講座にあやかって、上智大学公開自主講座を主催。(東大の折原浩氏、食品公害の郡司篤孝氏など、資金難とスタッフ不足のため3回で打ち切りとなる)

 

国立市歩道橋反対運動。(国内最初の住民運動と注目された。毎週1回国立市議の井上スズさんの自宅でミーティングを行った。そこには、市民だけでなく、大学の都市工学の専門家、道路公団の職員も参加していた。若輩で不消化ながらもその専門家のやり取りを聞いていて学ぶものが多かった。)

 

新潟県巻町の原発反対運動1973年ごろ当初7人の若者が集まり、予定地の角海浜の一坪運動をしたりと活動していた。全員巻町の出身だったが、私だけ長岡に住んでいたことがあったということで、後に仲間に加えてもらった。私がかかわっていたのは2年ほどであったが、巻町で合宿して勉強会をしたり、当時建設中の宮城県の女川原発を視察し、半島の民家にビラをもって一軒一軒回っていったりした。

 

まだ誰も原発という言葉も知らない時代だった。

後にこの巻町原発は、東北電力巻原発計画の是非を問う住民投票が実施され、反対数が多く取りやめとなった。日本の原発史上初めてのことであった。

 

・・・と、よくもまあ、こんないろいろなことをやっていたのかと思う。

 

2年生の秋に、学部別に組織された闘争委員会の集まりの中で話し合いがもたれた。

 

部室の1つには10名ほどの学生が集まっていた。その席で、私はこのグループを抜けることを宣言した。

 

運動を通して私が見たものは、誰かが指令を出し、上の一部の人間が大学側と交渉し(ボス交という)、立て看板を作る、ビラの文面を書き、印刷し、配るといった分業による縦の人間関係であり、我われが反対しているはずの体制側(と当時言っていた)の人間関係のミニチュア版が展開されていたことである。

 

「関。おまえは、俺の目がまっすぐ見えるか!」

「おう!お前もまっすぐ見えるか!」

と言って、20分ほど瞬きもせず、にらみ合いが続く。

 

これが彼らとの決別の場面であった。

 

私がグループを抜けた日に、それを見ていた3人ほどの女性がグループを離れたことを後に耳にする。